渦巻く知識

第十一部


私の船は今まさに沈もうとしていた。流々とした涙は止まる様相もなく、嗚咽だけが口をついた。周りを見渡してもあるのは揺蕩う海だけだ。降りてきた天使は上空からジッと私を見ている。見下している。彼は何も語らない。また私も何も言えずにいた。漣と慟哭だけがここにはあった。海は荒れる様子もない。
「汝、船を漕ぎたるものよ……」
天使がささやいた。その声は低く、厳格な重圧が発せられているようだった。
「その船を漕ぐ者よ。何故ここに止まる。ここはまだ彼の地に在らず」
天使は厳かに私に言った。私は嗚咽を飲み込んで応えた。
「私の辿り着く岸辺とはどこなのでしょう。私にはこの海の他に何も見えません。あるのは果てのない水平線だけです。私はどこに向かえばいいのでしょう。私はもう船を漕ぐことができません。」
天使は表情一つ変えずにこちらを見下ろしている。
その瞳は真の紅でありこちらが見えているのか知れなかった。
「汝の行く場所とはどこか。それは汝自身のみ知るものだ。
さりとて何故ここに止まる。ここが汝の在るべき場所と言うのか。ここは彼の地にあらず。進めよ。」
天使の言葉は抑揚のないものであった。
けれどもその言葉は私の心に突き刺さった。
まるで心の臓を抉り取られるような嫌厭な感覚がした。
胸元を裂き、内側の心が抉られていく。
いいもし得ぬ不安と恐怖と、そして身の毛もよだつ不快感が襲来した。
天使の眼は紅に染まっている。
敵意ではない。そこにあるのは侮蔑である。
私は自らの誇りが傷つけられるのを感じた。誇りが、ただ根拠のない誇りだけが私の心にはあった。
誇りとは何だ。掲げるべき崇高な意志などではない。
かと言って自ら卑下するようなものでもない。我が心の内にある鉛色の球体。心だとか魂だとか言い換えられたりもするこの球体。
決して輝くような彩りを帯びているわけではない。鉛色の重く、暗く、それでいてもなお、我が心に絶えず在り続けるもの。それを私は誇りと呼ぶ。
普段それが我が心内にあるという感覚はない。
言葉にする事の出来ない誇りが、決して誰かに見定められるために掲げるべきものではない誇りが、確かに私にはあった。
「貴様に侮辱されなくとも、私は船を漕ぐ。たとえこの航海に終わりが無かろうとも、私はこの船を漕ぐ。どこかの岸辺にたどり着くためではない。
私は私の言葉を、この言葉を発するだために船を漕ぐのだ。この海を往くのだ。既に私の言葉は、私自身の内にある。この『想いの海原』を、私の言葉は絶えず進み続ける。
たどり着く岸辺がこの世にはなくとも、私は私の言葉を発し続けるのだ!」
その鉛色の球体が、目に見えぬのみのようなもので傷つけられて行く。
私の言葉で、心が傷ついていく。

ー私の言葉で?
「汝、船を漕ぐ者よ。
聞け!己の声を!
記せ!己が意志を!
言葉がたどり着く地はどこか。
船が着く地はどこか。
問うな!如何に問えども答えは未だここにはあらず。漕げ!!船を漕ぐ者よ!!」
天使はそう私を鼓舞すると、私が乗っている一枚の僅かに水面に浮いているに過ぎない板の中に入っていった。
すると板はみるみる形を変えて、壮大な船に姿を変えた。
讃美歌が聞こえる。あの、船出の日の讃美歌がー